初夏ですが、暑くなったり寒くなったりです。
先日、以前から訪ねてみたかった五能線の駅に行きました。
カッコウとヨシキリが鳴き、のどかな駅でした。
昼時だったためか、そこだけ時間がゆっくりと流れているような
静かな空間でした。
この町で出土した土偶を模った大きなオブジェが
駅の前面に取り付けられていて、
遠くからでもよく見えます。
 木造—この町は、太宰の父・源右衛門が生まれ育った町で、
太宰の作品『津軽』に記されています。
大正、昭和の時代が、まだ息づいているような
商店街に懐かしさを感じました。

 
 鹿の子川溜池へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して
五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、
十分経つか経たぬかのうちに、木造きづくり駅に着いた。
ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと
見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。
人口四千余りで、金木町より少いやうだが、町の歴史は古いらしい。
精米所の機械の音が、どつどつと、だるげに聞えて来る。
どこかの軒下で、鳩が鳴いてゐる。ここは、私の父が生れた土地なので
ある。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。
父はこの町のMといふ旧家の三男かであつたのを、
私の家から迎へられて何代目かの当主になつたのである。
この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の
「人間」に就いては、ほとんど知らないと言はざるを得ない。(中略)
その父が、どんな家に生れて、どんな町に育つたか、
私はそれを一度見て置きたいと思つてゐたのだ。
木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでゐるだけだ。
さうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開してゐる。
水田のところどころにポプラの並木が立つてゐる。
こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。
他でもたくさん見たに違ひないのであるが、
木造のポプラほど、あざやかに記憶に残つてはゐない。
薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでゐた。
ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違はず、
華奢で頗る美人である。(中略)その日も、ひどくいい天気で、
停車場からただまつすぐの一本街のコンクリート路の上には
薄い春霞のやうなものが、もやもや煙つてゐて、
ゴム底の靴で猫のやうに足音も無くのこのこ歩いてゐるうちに
春の
温気うんきにあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、
木造警察署の看板を、
木造もくざう警察署と読んで、なるほど木造もくざうの建築物、
と首肯き、はつと気附いて苦笑したりなどした。

 木造は、また、コモヒの町である。コモヒといふのは、
むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞつて店先に
日よけの天幕を張つたらう、さうして、読者諸君は、
その天幕の下を涼しさうな顔をして歩いたらう、さうして、
これはまるで即席の長い廊下みたいだと思つたらう、つまり、
あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に
延長させて頑丈に永久的に作つてあるのが、北国のコモヒだと思へば、
たいして間違ひは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作つたの
ではない。そんな、しやれたものではない。
冬、雪が深く積つた時に、家と家との聯絡に便利なやうに、
各々の軒をくつつけ、長い廊下を作つて置くのである。
吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、
気楽に買ひ物に出掛けられるので、最も重宝だし、
子供の遊び場としても東京の歩道のやうな危険はなし、
雨の日もこの長い廊下は通行人にとつて大助かりだらうし、
また、私のやうに、春の温気にまゐつた旅人も、ここへ飛び込むと、
ひやりと涼しく、店に坐つてゐる人達からじろじろ見られるのは
少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。
コモヒといふのは、
小店こみせの訛りであると一般に信じられて
ゐるやうだが、私は、
隠瀬このせあるいは隠日こもひとでもいふ漢字を
あてはめたはうが、早わかりではなからうか、などと考へて
ひとりで悦にいつてゐる次第である。(中略)
この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、
たいていこのコモヒといふものがあるらしいけれども、
この木造町みたいに、町全部がコモヒに依つて貫通せられてゐると
いつたやうなところは少いのではあるまいか。
いよいよ木造は、コモヒの町にきまつた。
                       太宰治『津軽』

 新緑のポプラの若葉が、初夏の風に優しく揺れていました。
太宰が、『津軽』の旅をしたのは、ちょうど今頃のことです。

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